遠き日の一幕


「お兄様! 待って下さいってば、お兄様!!」
 エトルリアでも有名な公爵一家の邸宅に、幼い少女の声が響いた。
 彼女の名はユリア。アドリゲル家の長女である。
 ユリアの視線の先には、彼女の兄にしてアドリゲル家長男であるユージンが、両手にいっぱい果物を抱えたまま走っていた。
「そんなこと言われてもなー。父上に見つかる前に、これ持って行っちゃいたいんだよ」
 父譲りの碧い瞳で気遣わしげに辺りを見ながら、ユージンは中庭の方へ駆けていく。
「それなら大丈夫よ。お父様、近くにはいないから」
「まぁ、ユリアがそう言うのなら」
 ユージンはやっと歩調を緩め、妹が追い付いてくるのを待った。
「あいつ、まだ逃げてないよな? 聞きたい事がいっぱいあるんだけどな」
「まぁ、お兄様ったら。あのワンちゃんに言葉が通じると思ってるの?」
「あいつはタダものじゃないと思う」
 やけにきっぱりと断言する兄に、妹はふぅん、と言ってさらに突っ込む様子はない。
「お兄様がそう言うのなら」
 先程のユージンと全く同じ言葉を呟き、ユリアは中庭の一角に向かった。


 二人が、人目を憚るようにして向かった中庭の植え込み。
「…リゥ?」
 黄金色のふかふかとした毛並みを持つ、大きな耳の犬と見えなくもない小動物が、植え込みの陰から兄妹を見上げた。
「よしよし。お前、まだ逃げてなかったんだな」
 ユージンはその小動物の前に果物を並べる。
「食べるだろ?」
「…ル…ルゥ……」
 小動物は困ったように長い尾をくねらせた。その尾は長い茶色の毛で覆われていて、所々に深紅の毛が混じっているのが印象的だ。
「食べないのか?」
「…お兄様、もしかしてこのワンちゃんには、大きすぎたんじゃないですか?」
「……剥いた方がいいかなぁ」
 会話の内容を理解しているのか、小動物はますます困ったような様子で兄妹と果物を交互に見る。そして、二人に気付かれないように小さく嘆息すると、林檎に顔を近付けた。
「…あ! 林檎かじってる!」
「ユリア、しーっ!」
 子供達が瞳を輝かせて見守る中、小動物は二口、三口と林檎をかじると、再び、今度は何となく居心地悪そうに、兄妹を見上げた。あまりジッと観察されるのは嫌なのだろう。
 小動物の碧い瞳は兄妹の父親のそれとそっくりで、けれどまるでオパールのようにより複雑な色の移り変わり具合を見せる。そして黄金色の毛並みもまた、よく考えれば父親の髪の色とそっくりだった。
「なぁお前、どこから紛れ込んだんだ?」
 ユージンに聞かれて、目をぱちくりとさせるその姿は結構愛らしい。その点では、兄妹の父親とは決定的に違う。

「お主たち、何をしているんだ?」
 不意に声が聞こえて、ユージンは思わず飛び上がりかけた。
「は、母上…! いつの間に?」
 母上と呼ばれた女性は、腰に手を当てた姿勢で二人を除き込んでいた。
 その黒い髪と言い、澄んだ鳶色の瞳と言い、エトルリアの貴族とは思えない。いや、それ以前に顔立ちを見れば、彼女が大陸の民ではない事はすぐ分かるだろう。
 彼女はサキエ。かつて大陸を救う活躍をした軍師の一人であり、アドリゲル家当主の最愛の妻、つまりユージンとユリアの母である。
「少し前からいたぞ。なぁ、ユリア」
「ええ」
 ユージンとは異なり、ユリアの方はいたって冷静に頷いた。どうやら、彼女には分かっていたらしい。
「え、どうして教えてくれなかったんだよ!」
「だってお兄様、お父様には見つかりたくないって言ってたけど、お母様の事は言わなかったじゃないですか」
「うっ…!」
 ユージンはきまり悪そうな表情で妹と母を見た。
「た、確かに…」
「で、何をしておるのだ?」
 サキエが再び尋ね、兄妹は顔を見合わせた。
「ワンちゃんが紛れ込んでいたのです」
 ユリアが言う。
「だから、果物食べるかなって」
 と、これはユージン。
「ワンちゃん…?」
 サキエは小動物を見た。
 じー、と見つめられた小動物は、とっても複雑な表情で、小さく、鳴いた。
「リルル…」
「ふむ」
 サキエは何かを納得したらしい。
「ワンちゃん、ねぇ…」
「母上は何か心当たりが?」
 ユージンの問いを、しかしサキエは、はぐらかせた。
「そんな事よりお主たち、そろそろ休憩時間が終わってるという事を忘れてないか? 歴史学の先生が探していたぞ?」
「「…あっ!」」
 ぱたぱたと、慌てて駆けて行く子供たちを見送り、サキエは再び小動物に視線を転じる。
「…で、お主はいつまでそんな面白い恰好でいるつもりなのだ? ……ラズルーン」
 ラズルーン、と呼ばれた小動物は、一回ゆっくりと瞬きした。
「アシュとサキエ様に、報告する事ができたんですぅ。ついでに、あの子たちも見てみたいなと思ったら、この姿が見つかっても無難かなと」
 ラズルーンは人の言葉を発した。しかし、驚くべきこの事態に、サキエはいたって冷静だ。
「報告する事、か。なら、アシュレイの部屋にでも行くか?」
 返事も待たず、サキエはさっさとラズルーンを抱えると、屋敷の主の私室へと向かう。
「アシュレイ。客だ」
「私に…?」
 そんな予定を入れた覚えはないが、と首を捻るアシュレイの耳に、懐かしい声が届いた。
「お久しぶりなのですぅ、アシュ」
 小動物が人の言葉を喋った事に関して、アシュレイも全く驚いた様子を見せなかった。それもその筈。
 サキエの腕の中から解放された小動物が、光を発したかと思うと…そこに居たのは、小動物ではなく、アシュレイを幼くしたような風貌を持つ金髪の子供。それがラズルーンの本来の姿だと知っているからこそ、二人は動揺も何もしなかった。
「ラズか。何のようだ?」
「ちょっと報告に…。ついでに、あの子たちも見てみたくって」
「報告?」
 ラズルーンは、頷く。
「人間やめてそれなりに経ちますけど、そろそろ名前を真面目に封じないと暴走するかもって言われましてねぇ…。自分から本当の名前を名乗るのは、認めた相手だけにしろって」
「本当の名前…『ラズルーン』の事か?」
「はい。で、今まではアシュもいたから『アシュレイ』って名乗ってましたが、今はアシュ、外にいるでしょう? 自分の事だって分かって、他の方とあまり被りそうにない名前ってなかったかなーと思ったら、一つ良さそうなのがあったので、今後は最初はそっちの名前を使おうかと」
 夫婦は、顔を見合わせた。
「ラズルーンと呼ばない方が良いって事か?」
「お二方が使う分には、大丈夫ですよぅ。自分が、最初に名乗れなくなるだけです」
「で、その名前は?」
「アデル」
 聞いた瞬間、アシュレイが微妙な顔をした。
「…それは、固有名詞ではないだろう」
「もうアデルは自分しかいないので、大丈夫かと」
 アデルとは、アドリゲル家の中でも純血で、特殊な能力を使う事が出来る者の事である。普通の人が聞いても何の事か分からないだろうが、分かる者にとってはこの上なく怪しい名前だった。
「……まぁ、もうアデルは出ないだろうからな。その意味も、意味が分かる者も、殆どいない」
「でしょう?」
 ラズルーンは、にっこりと微笑んだ。
「で、名乗る名前を変える訳ですから、現在挨拶回り中なのですぅ」
「なるほどな。すぐ行くのか?」
「此処での用事はもう済みましたし、他の方に見つかる前に……」
 言うラズルーンの足元には、既に魔法陣が描かれつつあった。
「また来るよな?」
「というか、来い」
 その言葉に笑顔で応え、姿を消す。魔法の腕を上げたのか、残ったのは光の粒子だけだった。それさえも、すぐに消えて。
「あ」
 ふと、サキエが呟いた。
「子供たちに、何と言おう…。あのワンちゃんが、もう行ったとか?」
「ワンちゃん? あれを見て、あいつらそんな事言ったのか」
 アシュレイは呆れた表情だ。

 ユージンとユリアが「ワンちゃん」に再会するのは……



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