――カランコロン。
 宿屋の扉を押すと、扉にぶら下げられていた鐘が控えめな音を立てた。
 こういう、控えめな音、慎ましい音は好ましい。
 ……あの煩さが日常であれば、なおさらに。
「いらっしゃい! 泊まりかね?」
 快活に笑う女将に、申し訳ない気持ちになる。
「……いや、申し訳ないが、人探しだ。歳は自分と同じくらい、碧い眼に茶色い曲毛の連れ合いが、迷子になった」
「あれま! それは大変だね。親御さんは?」
 首を振って存在を否定すれば、女将は眉間に皺を寄せた。
「なんて無責任な! こんなちっちゃい子に全部押し付けたのかい!」
 何をどう考えたのかは、わからない。
 しかし、求めている返事がないからには、あの子はまた、違うところにいるのだろう。
 問題行動ばかりのもう一人の連れ合いではないが、あの子も相当問題の中心になりやすい。
「……いないようだから、失礼させてもらう」
「あ、ちょい待ちな! ……ハルト!! ……レオンハルト!!!」
「ちょっと待って! もうすぐ行くから!」
 奥のほうから聞こえてきた声は、少年のもの。
 全身汗まみれにしながら現れたのは、どこかあの子に似た色彩を纏う少年だった。
 色彩のほうは、という注釈はつくが。
 雰囲気のほうは、あの子が朝靄だとすれば、この少年は真夏の太陽だ。
「どうしたんだ? 泊り客?」
「いや、申し訳ないが、人探しだ。歳は自分と同じくらい、碧い眼に茶色い曲毛の連れ合いが、迷子になった」
 何度も繰り返した言葉だから、これだけはすらすらと言える。
 少年の視線が、自分の腰で止まった。
 剣が主流と思われるこの世界では、刀は奇異に映るだろう。
 大鎌ほどではないと思うが、な。
「街のことなら、こいつが詳しいんだ! あたしはここを離れるわけにはいかないからね、こいつを連れていきな」
「おう、任せといてよ! 俺はレオンハルト。あんたは?」
 案内人……か。
 正直、あまり地元の民と係わりを持ちすぎたいわけではないのだがな。
 吐息に乗せて、名乗った。
「……リュージュ」

* * *

 正直、魔法を使っても問題ない世界であれば、ここまで苦労しないと思うのだ。
 世界に落ちた壱の羽の化身を探すために落としている、この末の羽。
 落とす際には、ある程度の場所の目安と魔法を使えるかなどのざっとした下調べは行っているものの、魔法禁止の世界に来ると、どうしても足で稼がねばならなくなる。
 末の羽が模すこの姿は、本来、空で暮らす民のもの。
 疲れを感じるわけではないが、本来の姿を歪めて使っているが故の違和感は、拭えない。
「リュージュ、大丈夫か? さっきから顎が上がってるぞ?」
「……問題ない。空を見ていただけだ」
「さっきから、そればっかり。ちょっと休憩しようか」
 少年がそういって腰を下ろしたものだから、おいていくわけにもいかず、立ち止まった。
 案内人を振り切ったとあれば、あの子に何と言って叱られることか。
 我が身、我が世界は、二柱のために。
 人間らしく、と求められるのであれば、そう振る舞わねばなるまい。
「大体だなぁ、空を見上げていた、というのだって、あんまり褒められた言い方じゃないんだぞ」
 雲の色に懐かしい色を探していたら、少年がぽつりと言う。
「親に習わなかったのかよ。空には魔法を使う悪魔が住んでいるから、空の浮き島なんて探しちゃいけないって」
 そう、か。
 そういう世界か。
 地上は穢れた世界、降り立ってはいけない。
 そう空の上で教えられる世界と、空を求めてはいけない世界。
 或いは、同居していたかもしれない世界だ。
 目を伏せたら、少年から伝わる焦ったような気配。
「え、ちょ、まさか、マジで知らなかった……とか? なぁ、あんた、親は」
「親……は、もういない」
 少年の視線が行ったり来たりする。
「気にするな。遠い昔のことだ」
「いや、そういう問題じゃねーだろ!?」
 人間の心の機微は非常に難しい。
 だから、首を傾げた。
「おま……っ、周りにもっと誰かいなかったのかよ!?」
 周りに誰か……か。
「今は、そなたがいるな」
 少年は、頭をかきむしった。
「だから、そういう意味でもないんだってば!?」
「だいぶ気はまぎれた」
「あんた、さりげなくひどくねーか!?」
 ふむ、誰ぞから、話し方が移っただろうか。
 しかし、空を見上げるだけでも注意されるような世界……ともなると、あの子も同じ注意を受けている可能性があるな。
「……ふむ、少し視点を変えるか」
「へ?」
「……泉」
「泉?」
「ああ、空の綺麗に映る、泉。このあたりに、ないだろうか」

* * *

「リュージュ?」
 泉を熱心に覗き込んでいた子供が、泣き笑いのような表情でこちらを見た。
「待たせたな」
「いいえ……。自分こそ、迷子になってしまってごめんなさい。あの……そちらの方は?」
 ああ、そういえばと、街外れにあった泉まで連れてきてくれた少年を見ると、彼はやや呆然としていた。
「案内してもらった」
「ええとぉ、あのぅ……。そう意味じゃないのは分かっていますでしょう、リュージュ」
 呆然となる人間は、今までにも数多く見てきた。
 それだけ、傷を負って人外の気配が漏れ出ているこの子が、この世のものとは思えないのだろう。
「リュージュが、お世話になりました。自分は、アシュレイと申します。お兄様のお名前、お伺いしてもよろしいでしょうかぁ?」
「お……俺は、レオンハルト」
 哀れな少年が、この子の笑顔に捕まってどぎまぎしている。
 だが、翌朝には、忘れているだろう。
 我々と出会ったことなど、その記憶の欠片ですら、残しはしない。
 今回は、特に念入りに、記憶をもらっていくつもりだ。
「そうですかぁ。重ね重ね、ありがとうございました、レオンハルト様」
「案内してもらって、助かった。感謝する」
 少年は、目を瞬かせた。
「な……リュージュ、あんた、笑えたのかよ!?」
「失敬な。お礼に剣舞のひとつでも見せてやろうかと思っていたが、要らぬようだな」
「え、しかもそれ、使えたんだ!?」
「使えなければ、肌身離さず持つ意味はあるまい」
 音もなく抜刀すると、ごくりと少年の喉が上下した。
「……で、見せてくれんだな?」
「くどい」
 むしろ、見せねばならないのだ。
 魔法が制限されているこの端末で、大規模な魔法を使うには。

* * *

「……あれ? 俺、なんでこんな街外れなんかに……」
 泉のほとりで、少年が惑う。
「うーん、走り込みしてたんだっけ? それとも……えーと?」
 ひゅる、と風が吹き、少年は身震いした。
「……うん、考えないでおこうかな」
 魔法じみたことだから。
 と、続いたのだろうか。
 雲の上から見下ろして、やれやれと嘆息した影にはついぞ気が付くことなく。


戻る