Side L 01

 久々に、里帰りすることになった。
 故郷から、いい加減に顔の一つも見せろなんて、嫌な予感しかしない手紙が来た所為だ。
 そりゃ、俺はそろそろツガイを決めても良い歳に差し掛かるし、そういうことなんだろうぜ。
 はー、全く、面倒なこって。
 うっそうと茂る木々を掻き分けて歩く、数時間前の己の浅慮さのツケを払う為に。
 誰だよ、迷いの森を突っ切ったら近道になるかもなーなんて考えたの。
 ……俺だよ、馬鹿。
 二重の意味で溜息吐いて、休憩の為に手近な木に左手を付いた。
 森の麓にある集落から飛び出して、既に季節は二廻りどころか、更にもう一廻りはしたと思う。
 強くならなきゃいけない。
 それには、里の中じゃ、足りなかった。
 世界屈指の傭兵団の里、なーんて呼ばれているみたいだけれど、それでも里の外には……。
 ……あれ、おかしいぞ。
 今、俺は何を思い出しかけた?
 はー、本当に、面倒なこって。
 たまーに、何かを思い出しかけては、またすぐ忘れるんだよな。
 思い出しかけたって感覚だけが残るから、結構、モヤモヤしたもんが溜まるんだ。
 ガシガシと頭を掻いていたら、ガサリと物音。
 念のため、すぐにそちらに耳と目を向ける。
 …………。
 なんだ、小鳥が去ったのか。
 魔物じゃなくて、何よりだ。
 あいつら、実入りは良いんだけど、簡単にやられてくれるとは限らないんだよなぁ。
 森はまだまだ続きそうだし、こんな序盤から体力無駄遣いしたくねーよ。
 迷いの森は、幻の森。
 どんな魔物が出てきても、おかしくはないってな。
 魔物……ってわけじゃねーけど、確か、俺等ルプス族の他にダークエルフ族の集落があるって噂もあったな、そういえば。
 幻術を得意としていて、細っこい体躯と木の葉のような耳は神秘のエルフ族そっくりなのに、その肌は闇に紛れるように黒い。
 ダークエルフ、闇エルフなんて言い方は、エルフ族の言い方だから、本当は別の名前があるのかもしらねーんだけど。
 当のダークエルフ族がエルフ族以上に見かけられないもんだから、結局のところ噂だけが独り歩きしている感じだ。
 ま、所詮、噂は噂だ。
 今の俺に必要な情報じゃねーな。
 そこそこ歩いてきた筈だし、里のニオイとか、漂ってこねーかなぁ。
 木に体重を預けたまま、空中のニオイに意識を向ける。
 風がそよいで運んできたのは、仄かに甘い香り……どことなく懐かしい……懐かしい?
 おかしい。
 食べ物の香りじゃない、花の香りともちょっと違う、一族の香りじゃない、でも、懐かしいって変だ。
 眉間にシワが寄ったところで、再びザワリと音がする。
 ハッと振り仰ぐと、この薄暗い森にはまったくもって不釣り合いな存在が、枝の上で葉を揺らしていた。
 猫だ。
 白い、仔猫。
 明るい蒼の瞳を瞬かせる、か弱いイキモノ。
 ……本当に?
 獲物を騙そうとしている、魔物じゃなくて?
 いつもなら警鐘をガンガン鳴らすはずの本能が、今回に限って全く仕事をしようとしない。
 怪しいと思えないどころか逆に安心するって、それ自体が怪しい筈なのに!
 ふーっ、落ち付け、俺。
 俺と共に在る筈の、いつもの涼やかな鈴の音を思い出せ。
 強力な魔除けの効果を持つ銀の鈴。
 里を出た時には、既に俺の左手首に結わえてあった鈴。
 これまた、由来を思い出そうとするとものすごく頭が痛くなるんだが、効果は絶大だ。
 この鈴の音の前には、殆どの幻術が儚く破れる。
 右手で懐に忍ばせた投げナイフの感触を確かめつつ、木に固定していた左手を離す。
 ――リリン。
 仔猫が、目を見開いた。
 眼前に涙の幕が張ったかのように、周囲の風景がぼやける。
 ただ一対の蒼い宝石が煌き、遠くで誰かが囁いた。
「……リュー……?」
 瞬きした間に、仔猫は身を翻していた。
 その後ろ姿が、違和感を刺激する。
 普通の仔猫だと思っていた。
 ……尻尾が二股に分かれているとか、気付かなかった。
 白のふさふさとした毛並みをちらつかせながらも、あっという間に森の奥に消え去った小さな影。
 思わず追ってしまっていた俺は、もう本当に本能が狂っていたとしか、思えない。
 今度こそ、今度こそ、失いたくない、失わないんだ。
 そんな思いがあっただろうことも、気付かなかったから。
 ――リン、リリン。
 手元で軽やかに鈴が鳴る。
 閉ざされていた道が開いていく。
 迷いの森、幻の森、そのずっと奥に向かって。


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