Side L 02

 困った。
 迷子になった。
 今、自分がどこにいるのかも、正直よく判んねー。
 森の一角に小さな湧水があって、そこで仔猫を見失った。
 頭上の枝から枝へと渡る白い影と、甘い香りを追っていたら、いきなり視界が開けて、足元には水があった。
 池に落ちないよう踏み止まった隙に、姿を消されたんだ。
 ちょっとした小川だったら飛び越えられたのに、残念だぜ。
 湧水のこちら側はちょっとした勾配になっていて、小川が流れ出ている。
 対岸は原っぱになっていて、そこを見ているのは何だか落ち着かなかった。
 原っぱの端に生えている木の一本が目に留まって、思わず瞬きする。
 枝から、意図的にぶら下げられた蔦のような縄のようなものが、二つ。
 そして括りつけられた、板。
 ブランコだ。
 うん、どう見ても、ブランコだ。
 しかも、風なのか見えない乗り手でもいるのか、ゆったりと揺れている。
 左手に幽かな振動が伝わり見下ろすと、鈴が鳴りそうに震えていた。
 ……強力な幻術が働いている、かもしれねーな。
 さーあ、気合を入れろ、俺。
 腑抜けている場合じゃないぞ、俺。
 こんな、敵かもしれねーヤツの懐近くまで、まんまとおびき寄せられてる場合じゃねーだろう?
 ここは何としても幻術を解いて、里に帰らなきゃならねーんだ。
 ……どんなに面倒だと思っていてもな。
 非常にもやもやとした気持ちになるのは、きっと幻術の所為に違いない。
 決して、その後に言われるであろう見合いの話がどうしても気に食わないからじゃなくて……。
『りゅーく!』
 幼い、舌足らずな声が聞こえた気がした。
 誰だ。
 誰が、俺をその名で呼ぶ。
 確かに、俺の名前はリュクレウス。
 リュークと呼ばれても、不思議じゃあない。
 でも、その呼び名は許してない。
 許してない、筈なんだ。
 俺の愛称は、レウスだ。
 いつもなら、訳もなく苛立つ呼ばれ方。
 なのに、その不思議な声にホッとする自分がいる。
 無意識のうちに、返事をしようと口を開いて。
 喉元まで出掛かった言葉が出ないことに、愕然とした。
 俺は、誰の名を、呼ぼうとした?
 なんてこった、理性が邪魔だ。
 求めたのは、ブランコを揺らして笑う、白銀の幻影。
 ふわふわとした手触りなのを、知っていた。
 いつも、甘い香りを漂わせていた。
 俺よりも、ちっちゃくて、無力なようでいて、でも……。
 ――リリン。
 鈴の音が、俺を現実に引き戻した。
 甘い香り、まだ続いている。
 いや、むしろ、増している……?
 いつの間にか、鼻先が触れ合いそうな近さで俺を覗き込む、白銀に縁取られた碧の輝き。
 月の光、澄んだ泉、いや、もっと深い……。
 鼓動がウルサイ、息が上がる。
 求めていた幻影を塗り替えてしまうほどの、圧倒的な存在感。
 見入っちゃいけない、魅入られたら負けだ!
 思いっ切り頭を後ろに仰け反らせたら、ガツンと後頭部に殴られたような衝撃が来た。
 グラグラと揺れる、回る、ああ吐き気がする。
 こんなところで倒れてる場合じゃない、のに……。
 後ろにあった木にもたれかかるようにずり落ちる、そんな俺を見て何故か焦ったような色を浮かべる目の前の少女。
 卵のような生成り色の肌、雪か月光のような白銀の髪、澄んだ湖のような碧い瞳。
 なんでだよ、そんな泣きそうな顔をするなよ。
 俺を幻にはめて、今日の獲物が手に入ったって……喜ぶところだろ、そこは。
 側頭部からヘタリと垂れた大きな細い三角形の耳と、ドレスの端から覗くふさふさの尻尾に気付いて、俺は今度こそ気が遠くなった。
 ……魔物じゃねーじゃんよ……。
 フェリス族にしちゃ、耳が横にあるし、少し細い、けれど……。
 残念ながら、そこからの記憶は途絶えてる。
 まったく、我ながらとんだドジを踏んだもんだと思うぜ。


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